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あざみ野FC・OB列伝 その32010.07.30

―11期生(’92年卒団) ~ 15期生(’96年卒団)―
11期生が卒団した’92年から15期生が卒団した’96年までの5年間は、日本のサッカー界にとって激動の時代であった。 積年の夢がかない'93年にJリーグが発足、キングカズやラモスがヴェルディで活躍したが、同年のワールドカップ予選で「ドーハの悲劇」と呼ばれる悔しい敗退。 従って'94年のワールドカップアメリカ大会は参加できなかったが、'96年には2002年の日韓共同開催が決定されたという時代である。

神奈川県の少年サッカーでは日産FCプライマリーが新子安、追浜、菅田とスクールを拡大するとともに、3年生からのセレクションで各チームの低学年エース級を集めて強力なチームを作るようになり、高学年の市、県の大会では日産が優勝するか、日産を破ったチームが優勝するといっても過言でない時代であった。 あざみ野FCもSL,LLでは市大会で優勝できるものの、Lではこの時期国際チビッ子で5年連続優勝をした日産FCが厚い壁となり、タイトルが取れない苦難の時を過ごした。 そして1996年2月、1995年度神奈川県大会で15期生、17期生による高・低学年ダブル優勝(しかも共に初優勝)という歓喜の時を迎えたのである。

‘92年卒団の11期生は現在SLのコーチをしている岩崎誠、佐藤力哉、数年前までLLのコーチをした新村理の年代である。 岩崎は大きな身体ながらセービングも上手なGKであったが最大の武器は驚くほど飛ばすパントキックであった。 気は優しくて力持ち、肝試しが最大の苦手で、1学年下で神奈川選抜に選ばれた妹の倫子(あざみ野FCキティーズ)にも優しいお兄ちゃんだった。 佐藤はスタミナとスピードを併せ持ったMFとしてチームの牽引役、中学からは読売ヴェルディのジュニアーユース、学生時代は東京農大でも中心選手として活躍した。
新村はスピードのあるFWで、特にばねの利いたヘディングシュートは当時から周囲の目を見張らせるものがあった。 この11期生にとっては2年生の春市大会での準優勝、Lでの全日神奈川県予選のベスト8が思い出に残る成績であった。

この当時から現在まで20年余りあざみ野FCの事務局として皆が頼りにしている古畑さん(母)の方が関係者には有名(?)であるが、その息子で現在Lのコーチでもある古畑康は12期生である。 古畑はテクニックもスピードもある堅実なユーティリティープレイヤーであり、点取り屋の小早川巌雄、身体能力に優れ攻守の中心であった萬(よろず)雅大らとともに12期を支えた。 萬は桐蔭学園に進み全国高校サッカー選手権大会に神奈川代表として出場している。 この12期生は2年生のときに春市大会優勝、秋の国際チビッ子準優勝と好成績で期待されたが、高学年ではなかなかタイトルに恵まれなかった。

'94年に卒団した13期生は縦への突進力が抜きん出ていたストライカーの萩原強、少年ファンタジスタのMF遠藤出、スピードのあるドリブルが得意の岡部英範、強力レフティーの川口正人などタレントが揃った年代であったが、やはり高学年では日産FCプライマリーが強かったことで、この学年も公式戦タイトルは2年の国際チビッ子優勝と5年の市新人戦優勝に止まらざるを得なかった。  川口はマリノスユース卒業後すぐに京都パープルサンガとプロ契約し、あざみ野FC2人目のJリーガーとなったがJ1での出場機会には殆ど恵まれなかった。 異色は岡部であり、現在某有名プロダクションの若手お笑いタレントとして売り出し中である。

'95年卒団の14期生は白井雄太、諏訪勇治、斉藤伸、杉山慶太、慶田雄一郎など兄弟であざみ野FCに在籍した兄または弟が多かったが、強力チームが出来て盛り上がった13期と15期の「谷間の世代」と親達が自称するほどで、公式戦で市のベスト8を目標にするのがやっとという実力であった。 3年生から4年生の時期に稲葉洸太郎、慶田雄一郎、等が抜けエース不在となったが、6年の全日神奈川大会でベスト16まで進んだのは立派であった。
稲葉は4年から暁星小学校のクラブに移り、その後中学、高校と東京都選抜等で活躍後フットサルに転向、2008年ブラジルで開催されたフットサルワールドカップで日本代表ストライカーとしてキューバ戦に2点をとる活躍をした事は本ホームページのOB紹介欄で以前に紹介されている。

15期生は個性派集団。 腕白の代表が松井3兄弟の3男松井亮や川口隼人、直人の双子兄弟 (13期川口正人の弟)であれば、極めて真面目なのがテクニッシャン郡司海や集中力のあるDFの楠武明キャプテン、そしてそれらの中間で個性的なのが最軽量級ゲームメーカーの岡部将和 (13期岡部秀範の弟)や大型ストライカー松崎怜、シュートのうまい一反田拓三らであった。 後、郡司は桐蔭で全国高校選手権大会に神奈川代表として出場、岡部はフットサルで一流チームに在籍する。 これら個性派集団のそれぞれの個性がうまくコオーディネートしたときには爆発的強さを見せる半面、もろさもあるというのが15期生であった。 4年のときに春市大会優勝、秋の国際チビッ子で準優勝したチームが、そのもろさのせいでLでは無冠に終わるかと思われたが、最後のチャンス、’96年2月に、県大会初優勝、しかも4年生とのダブル優勝という快挙を達成した。 このときの横浜球場はあざみ野FC関係者の歓喜の声であふれ、翌々日の神奈川新聞13面はほとんどあざみ野FCの“快挙”の記事で埋まったのである。 


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写真は神奈川県大会ダブル優勝の15期生、17期生集合写真(横浜球場1996年2月)
とその快挙を伝える神奈川新聞の記事です。

あざみ野FC・OB列伝 その22010.07.20

―6期生(’87年卒団) ~ 10期生(’91年卒団)―
神奈川県の少年サッカーは藤沢市を起点にして成長した。 従ってあざみ野FCの創成期は藤沢市の小学校を母体とした少年団チームが県内をリードしていた。 つまり後発であった横浜市の少年サッカーは「藤沢に追いつけ、追い越せ」を合言葉にしていた時代である。
そしてあざみ野FCの6期生から10期生が卒団した1980年代後半から90年代初期は、それ以前の5年間で低学年では躍動を始めていたあざみ野FCがようやく高学年でも当時横浜市の強豪であった山王谷、駒林、本郷に肩を並べるまでに成長した時代である。 この時期、神奈川全体で見ると厚木、藤沢地区が少年サッカーをリードしており、特にGP(ゴールプランダーズ・厚木市)は'84、’85、’88、’89に全日神奈川代表となり、全国大会でも'85に4位、’88に3位と健闘していた。 少年サッカーの技術や戦術面でもこの時期は変革期であり、従来のキックアンドラッシュという戦法が主体でその戦法の優位が動かない中で、日産FC(現在のマリノスプライマリー)やあざみ野FCがドリブルとショートパスでゲームを組み立てるサッカーを目指すようになっていた。

地域ということでみるとこの時期にあざみ野地区は新興住宅地として人気が高まってその人口が急増し、「キャプテン翼」効果もあってあざみ野FCの入団者は急増した。 当時の入団者の多くがあざみ野第一小、第二小、山内小などの地元小学校在籍者であり、特に第二小では男子生徒の2割以上があざみ野FCに入っているというような時期もあった。 ただこの地域は私立中学の受験を目指す学童が多く、卒団時には在籍者が半分に減っていたという学年も多かった。

'87年に卒団した6期には当時のLL大山監督の息子の大山幹也や片山コーチ(現在の片山Lコーチではなく6期~12期を教えた熱血コーチ)の息子片山恭もいたが、この学年のエースは俊足ストライカーの植田遊であった。 現在まで続くあざみ野FCの横断幕やそれのベースとなったあざみ野FCのロゴマークはデザイナーであった植田の父親がデザインしたものであり、遊も父のあとを継いでデザイナーとして仕事をしている。

小倉俊夫がキャプテンとして頑張ってまとまりのあるチームとなった7期には、後に東大や一ツ橋に進学した秋山淳、山内修平等勉強もよく出来る選手がおり、受験とサッカーを見事に両立させていた。

あざみ野FCの前半15年間で最強の学年が’89年に卒団した8期生であろう。 秋の国際チビッ子ではSLでは決勝で駒林に敗れ2位となったものの、LL、Lで見事優勝した。 6年生の秋、国際チビッ子20周年記念大会の決勝は三ツ沢の本グランドで行われ、山王谷を1-0で破りLでの公式戦初優勝となったが、Lでの市大会、県大会での優勝はこれ以後、7年後15期生が県大会で優勝を飾るまでお預けとなる。
‘気が優しくて力持ち’のキャプテンGK工藤満、SL、LLではエースストライカーであったがLで見事にCBとして守備の要となった浅井祐治、決勝戦で決勝点を決めた石渡良輔、胸のトラップが上手で突破力のあるトップ下の浮穴圭介がこのチームの牽引役であったが、渡辺誠吾、佐藤拓哉、川辺了一、糸井達哉、高橋秀樹、栗原延行、比嘉篤志の主力7名はいずれもあざみ野団地在住者であり、これらのまとまりも好成績の一因であったように思う。

岩田佑作という常に周囲の笑いを誘うヒョウキンモノキャプテンがまとめた9期生は春の市大会での初優勝をLLで達成したが、この9期には小さなテクニシャン三宅大輔がいた。 三宅は中学、高校とマリノスのジュニアユースやユースで活躍、当時は中村俊介が彼の控えであったという話はあざみ野FCの伝説となっており、現在も天皇杯神奈川代表を常に狙う強豪YSCCの中心選手や監督として活躍している。
後にコーチとして5年程FCに戻った青山智も9期であり、小学校のときには運動能力がかなり低い方に属した青山が青年期に高い運動能力を身に着けていたことには驚かされた。

10期生は4年生のときに県大会で3位となり期待されたが、人数が20人に満たないことで底上げが出来ず、'90年の全日神奈川を制し高学年では図抜けた存在となった日産FCに屈することが多かった。 この年代ではスタミナ抜群のゲームメーカー松野浩一、テクニシャンストライカー木下雅文、松井3兄弟の長兄でGKの松井和士が横浜選抜に選出され、横浜市の市制30年記念行事として、それぞれにオデッサ、ボンベイ等に別々の選抜チームとして海外遠征するという恩恵に浴した。 

9期生が卒団した’90年以後、横浜市の少年サッカーは新子安、菅田、追浜に拠点を整備し、3年生から優秀選手を選抜してチームつくりをする日産FC(’96年からはマリノスプライマリー'01年からはFマリノス)が牽引するようになる。 '90年の全日神奈川予選を制覇いて以後15年間はLL、Lの市大会や県大会では常に日産FC(マリノス)が上位を占め、あざみ野FCにとってマリノスに勝利することが大会で優勝することに通じる目標となっていた時代である。


ABOUT US ページの中の アルバム に懐かしい8期生の写真がアップしてあります。
写真の後ろにいるのは左から川手コーチ(未成年!)、村上代表(若い!)、渡辺コーチ(現LL監督で当時は髪の毛が黒い!)